孫子の兵法 〜作者の 孫武が生きた時代と最初の試練(宮女の練兵式)

孫子 孫武が生きた時代と最初の試練 孫子の兵法

孫子の兵法とは

孫子の兵法とは、紀元前500年ごろ中国春秋時代の軍事戦略家である”孫武”の作とされています。まずは、簡単に、孫子の兵法が生まれた時代と孫武のプロフィールについてご説明しますね。

時代背景はどうだった?

中国の春秋時代とは、紀元前771年〜紀元前5世紀のおよそ320年間の時代です。

紀元前771年、周の文王の悪政の結果、反乱が起きて、周の文王が死亡してしまうという事件が起きます。そうして周の秩序は失われ、争乱の時代に突入します。

孫武はどんな人だった?

孫武は元々、斉の大夫でしたが、内紛が起きた際に呉へ逃れています。呉の郊外で「孫子兵法」13篇を書きます。そこで呉の宰相である伍子胥と知り合います。

孫子 孫武

孫武が呉で試された最初の試練

伍子胥と知り合い呉王に紹介されることになった孫武ですが、そこで早速、呉王から試されることになります。

孫子の兵法自体はすでに呉王は読んで、これを称賛していたのですが、孫子の兵法を書いた孫武に、軍を指揮する実戦での力があるのか、あくまでも、卓上の理論ではないかと、試してきたわけです。

「史記」の孫子伝によれば、宮中の夫人180名の練兵の指揮を任されたとされています。

序盤戦

もともと宮女を練兵するということ自体がふざけた話です。宮女は兵士ではありませんから、宮女自体が兵士としての訓練を受けること自体、そもそも納得していませんし、向いているとも思われません。

ですから、宮女たちも、ふざけた余興か何か始まるくらいにしか思っていません。自然と宮女たちは孫武から指示を受けても、笑って、この指示をまともに聞こうとはしませんでした。

中盤戦

一方、孫武は、真剣です。命令を繰り返した上で、「命令が既に明確なのに実行されないのは指揮官の罪である」として、宮女たちの中で隊長に任命していた2名の寵姫(王様のお気に入りの妾、妃)を斬ろうとします。

ここで驚いたのは呉王です。呉王は、取り巻きの大臣から、孫武を試すために宮女たちを使って練兵させることを許可していましたが、まさか、孫武がそこまでやるとは思っていなかったのです。

しかも、ただの宮女というだけでなく、隊長に任命していたのは、呉王のお気に入りのNo.1,2の妾・妃でしたから、それを孫武に殺されてはたまりません。

呉王はすぐに練兵の指揮を行なっている孫武に使いをだし、二人の寵姫の処刑を取りやめるように、助命の嘆願をします。呉王としても、孫武に練兵を任せているのが自分である以上、礼は尽くしたようですが、いずれにせよ、処刑をやめろという指示を出したわけです。

それを聞いた孫武は、王様がそこまでいうのであれば、、として、ここで落とし所を作るかと思いきや、これを拒みます。

「将軍は軍隊にあっては君命にも従わない場合もある」として隊長としていた2名の寵姫をそのまま、斬首させます。一同には、それまで遊びだと思って軽い気持ちでいた宮女たちの驚きと恐怖の悲鳴が響いたことでしょう。

特に呉王の寵姫たちにとっては、自分たちが呉王の寵愛を受けている自信がありますから、まさか、呉王の配下でありまだ取り立てて実績も権力もない孫武から、そのような厳しい処刑を受けるとは想像すらしていなかったと思います。

後半戦

一気に練兵場の雰囲気が変わりました。そんな中、孫文は、練兵を続けます。宮女は元々180名集められていますから、新たに二人の体調を残りの宮女の中から選んで、再開です。

宮女たちは、今までとは違って、本来の兵士のように規則通り整然と行動し出します。

宮女の練兵から何が見えたか

さて、この宮女を使った練兵式で、孫武は指揮官として何が優れていたのでしょうか?単純に宮女たちを恐怖で支配したのでしょうか。。あなたはどう思いましたか?

令するに文をもってし、ととのうるに武をもってす

孫子の兵法の第9、行軍篇にはこのようなフレーズが記されています。

要するに、兵隊を上手く指揮するためには、まず事前にルールを明確にしなければならない。そしてその上で、このルールを守らないものは確実に罰する、ことをしなければならない。このように言っているものです。

いわゆる、「信賞必罰」(しんしょう ひつばつ)ですね。

ルールをしっかり示せていても、ルールを守らない兵を罰することをしなければ、空気が緩み、他の兵もルールを守らなくなります。

逆に、ルールが曖昧にしか示されていない状況で、厳しく上官の判断だけで処罰がされていては、兵士は何をすべきか混乱してしまいます。

※こちらのフレーズは、当サイトの以下のページで詳しく解説しています。

納得させるロジック、賞罰の一貫性、両方必要

孫子の兵法 – 「令するに文をもってし、斉(ととの)うるに武をもってす」まずルールを明確にして、初めて賞罰ができる!

無法の賞を施し、無政の令を掲ぐ。三軍の衆を用うること一人を使うが如し。

関連して、孫子の兵法の第11、九地篇ではこのようなフレーズも示されています。

戦争においては、兵士が褒めるべき行いをした時には、平時の規定を無視するくらいの破格の大賞を与えるべきだということですね。そうすることで兵士がやる気をもって指揮官の思う通りに動いてくれるようになるという考え方です。

逆に、兵士が悪い行いをした時には、今度は、平時の政令を無視するくらいの大変厳しい処罰を行うべきだということです。これによって、激しい戦乱、乱軍の中でも、兵士が規律を守って指揮官の思うように動いてくれるようになる、という考え方ですね。

特に、戦場においては、兵士は、いつ死ぬか分からないような極限状態に置かれています。そのような極限状態においては、平時に人を緩やかに動かす程度のモチベーションだけでは、コントロールできなかったのではないかと私は思います。

現代においても、より緊張感・プレッシャーの高まる、勝負のタイミングにおいて、チームを一体にして勝利のために最も良い形で動かすためには、同様となりそうですね。

また、ほとんど終身雇用に近いような雇用形態の組織と違って、いつ会社が立ち行かなくなるかわかならないような立ち上げたばかりの会社・ベンチャーや歩合制に近く出入りの激しいような企業であれば、無法の賞、無政の令がより求められると考えた方が良いでしょう。

将の能にして君の御せざるものは勝つ

さらに関連して、3つ目、孫子の兵法の第3、謀攻編では、このようなフレーズが示されています。

要するに、将軍が有能であって、君主がこれを信任しており、干渉しない状態であることが、敵に勝つための体制として必要である、としているものです。

次のフレーズも、だいぶ似ている内容について示したものですので、次のフレーズの所でまとめて詳しく解説しますね。

孫子の兵法 – 現場トップが○○な現場、△△な本社が□□する現場、は必ず失敗する – 「謀攻編(第三)-五」より

道に寄らざる所あり、軍に撃たざる所あり、城に攻めざる所あり、君命に受けざる所あり

関連して、4つ目です。孫子の兵法の第8、九変篇では、このようなフレーズが示されています。

王様の命令であっても、時には聞かない方が、国にとっても自分にとっても良いケースがある、ということです。

現代でも、一般的に、嫌な上司や無能な上司の言うことは、話半分で聞く、というのはよくある話とも思われますが、兵法書のなかで、これがキッチリと合理的な手法として示されていることに驚かれる人も多いのではないでしょうか。

特に前半の、道に寄らざる所、軍に撃たざる所、城に攻めざる所、といずれも敵との戦いの中であれば想像しやすいと思うのですが、それと同列に並べて、本来味方であるはずの、将軍と君主の関係においてもスパッと書かれています。

まさに孫子らしい部分ですが、キレイ事でなく、冷徹な視点を示しているので、むしろ役に立つといえるでしょう。

王様は戦争の現場のことを必ずしもよく知っていないのです。また、現場に仮にいたとして、優秀な将軍よりも戦術や兵の指揮に長けていたかというと、微妙だったとも思います。

そんな状況で王様が間違った指示をした時、ただ、それに素直に従ったところで、戦争に負けてしまえば、将軍は死ぬだけです。。美談となるのかも知れませんが、将軍も死んで、王様も死ぬかも知れません、民も略奪にあって苦しい目に遭うでしょう。

だからキレイゴトだけに酔っていてはいけないんです。将軍は。現代でも、将軍のように、勝負事に際して指揮権を与えられていて、その責任を負っている人は、オーナーや自営業、社長、管理職、リダー問わず、同様の視点を冷徹に持つべきでしょう。

Youtubeでも語ってみました。

孫子の一番有名なフレーズについて、Youtubeの動画でも語ってみました。何か別の作業をしながら音声だけ聞くようにもできますし、移動しながら音声を聞いたり、と活用いただければ幸いです。

よろしければチャンネル登録と高評価もいただけると大変嬉しいです。

孫子の兵法 敵を知り己を知れば百戦して危うからず – 実は多くの人が理解できていない!孫子の真髄を解説。

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