織田信長 桶狭間の戦い – 今川義元の大軍25000人を信長軍3000人が撃破

桶狭間の戦い 戦国時代(日本)

桶狭間の戦いとは

桶狭間の戦いとは、戦国時代の1560年の6月、尾張国知多郡桶狭間で織田信長が今川義元を撃ち破り、織田信長の躍進の大きな転機ともなった戦いです。

『尾州桶狭間合戦』

(『尾州桶狭間合戦』歌川豊宣 画)

特に、この戦いが有名なのは、当時大きな勢力を持っていた今川義元の2万5千人とも言われる大軍に、兵力が3000人程度でまだそこまで力のなかった織田信長が勝利を収めるという、そのドラマチックな展開からでしょうか。

織田信長が天下人への道を歩み、戦国時代の多くの地域を平定していくことになりますが、その序盤戦での重要なターニングポイントとなった戦いです。

実際にそれほどの人数差があったのかといったところでは諸説がありますが、一般的に知られている内容からは逆転劇の印象があり、TVの時代劇等や特集番組等やマンガなどでも多く取り上げられてきたことが理由かと思われます。

開戦前の状況

織田信秀の死と、今川へ鞍替えする勢力

織田信長の父、信秀が1551年に病気で死去します。その後、信秀の子である信長と弟の信勝(信行)の間で、勢力争いが起こります。そうした中で力のあった信秀のもとで織田方に留まっていた、鳴海城、笠寺城を守っていた山口教継が今川方に鞍替えします。

さらに、この鞍替えした山口氏からの呼びかけもあり、近隣の大高城、沓掛城の一帯も今川氏に鞍替えすることになってしまいます。

この辺りは、もともと、織田と今川の勢力の境界線上にもあり、織田側の勢力が後退し、今川勢力が信秀死後の織田家の混乱に乗じて、勢力を広げてきたことになります。

信秀没後、信長が徐々に地盤を固めて反撃

しかし、信長も黙っていませんでした。

織田信長

信長が徐々に織田家の地盤を固めていく中で、信秀の病没の3年後となる1554年には、今川方の村木砦を攻め落とし、笠寺城を奪還しました。

1556年、信長は、実質的に家督争いをしていた弟の信勝(信行)との間で稲生の戦いを起こします。結果、信勝側の柴田勝家は敗走し、林美作守が討ち取られ、信長側の完全勝利となりました。その後も信勝はしぶとく盛り返しを図りますが、1558年の11月には最後に謀殺されて終わります。

信長はこれで信秀の1551年の没後ずっと脅威となっていた信勝との争いに7年間をかけてようやく終止符を打ち、織田家の地盤を大きく固めることに成功しています。

その後1559年ごろには、信長は、今川方へ鞍替えした鳴海城の周辺に、丹下砦、善照寺砦、中嶋砦を築き、大高城の周りには丸根砦と鷲津砦を築いています。

この流れからは、織田家の地盤も固めたことでようやく今川がたへの反撃体制に取り掛かり、2城の間の連携を遮断し、その影響力を抑え、次にこの2城を攻略できる足掛かりとしていたと思われます。

なお、1558-1559年には、今川・松平方の品野城を、奪取に至らなかったものの、攻略しています。

開戦後の戦局の動き

今川義元の大軍の出発

1560年5月12日、今川義元は、大軍を起こして信長の領地である尾張へ出発します。

その後、一旦、義元は5月17日には今川方の沓掛城に入り、5月18日には今川軍に加わっていた松平元康率いる三河勢を先行部隊として、大高城への兵糧の運び込みをさせたとされています。

義元が沓掛城へ、元康が大高城へ

 

当時、大高城は、上記のように信長の築いた砦に囲まれていましたので、ある程度の軍による護衛なしでは兵糧を大高城に運び込むのも難しい状況です。

織田側も大高城への兵糧の運び込みを隙あらば邪魔しようとする状況と考えられますので、松平元康は大役を任されて、ある意味、先鋒隊のような役回りをさせられていたとも考えれます。

丸根砦と鷲津砦への攻撃と信長の反応

大高城への兵糧の運び込みを成功させた松平元康は、翌日5月19日には、朝比奈泰朝と共に、それぞれ大高城の周囲に織田方に設置されていた丸根砦と鷲津砦への攻撃を開始します。

 

今川軍が鷲津砦、丸根砦を攻撃

織田信長はこの丸根砦と鷲津砦が攻撃されている報告を聞くと、すぐに飛び起きて、有名な「敦盛」の一節を舞った後に、明け方に居城の清洲城をわずかに小姓5騎のみを連れて、出発したとされています。

敦盛の中で信長が舞ったとされている一節は「信長公記」のなかで以下とされています。

人間50年、下天(※)のうちを比べれば、夢幻のごとくなり

一度生を受け、滅せぬもののあるべきか

※「敦盛」の中では「化天」と記されていますが、「信長公記」の中では「下天」と記されているようでした。

熱田神宮へ向かって戦勝祈願をしたのち、成海城を囲む織田方の砦の一つである善照寺砦に入り、約2千人から3千人の軍勢を整えたとされています。

信長本隊が出陣、善照寺砦へ

 

小姓5騎で出発した上で、神や宗教を信用しなかった信長が熱田神宮で戦勝祈願をしたと言うのが事実なのであれば、軍勢が信長に追いつき集結するための場所として熱田神宮を中継地的に使用し、また、信長以外の神や宗教を信じる兵たちの心をまとめるための儀式として戦勝祈願をしたのかもしれません。

今川義元の軍が沓掛城を出発

丸根砦と鷲津砦は、それぞれ500名程度の織田軍に守られているに過ぎない小規模な戦力でした。より大きな兵力を率いた松平元康と朝比奈泰朝の今川軍の猛攻を受け、共に、織田側の大将クラスが討死にし、陥落しています。

こうして大高城の周辺が今川の両軍によって制圧されたことを待って、満を持して、今川義元は沓掛城を出発し、大高城方面に向けて進軍を開始します。

佐々政次と千秋四郎の軍による今川軍の前衛への攻撃

信長軍も同じ頃、善照寺砦を出発しますが、まずは、織田方の前衛である佐々政次、千秋四郎が今川義元軍の前衛に攻撃を仕掛けたとされています。

義元が沓掛城出陣、織田軍の前衛が出撃

 

ですが、この織田方の前衛は300名程度で、今川義元軍のより強力な前衛に反撃され、佐々、千秋の両名共に討ち取られてしまいます。織田方にとっては丸根、鷲津の両砦の陥落に続く、敗戦となりました。

ところが、この織田方の前衛の攻撃ですが、今川義元軍の前衛を、義元の本体から引き離すことに成功したという説があるようです。

織田軍の前衛に今川軍前衛が突出し攻撃

 

信長本体による、今川義元本隊への急襲

その後、織田信長は、今川義元の本隊から今川軍の前衛が引き離されたことを察知したのか、しないのかわかりませんが、義元の本隊が最小限の構成となったピンポイントのタイミングで、義元本隊を急襲します。

 

急襲の結果、義元軍は体制を崩し、義元は親衛隊に囲まれて騎馬で退却しようとしたようですが、優勢な織田軍に徐々に撃ち減らされて、ついには、毛利新介によって組み伏せられて討ち取られます。

孤立した義元本隊を信長本隊が急襲

義元軍の総軍勢は依然として信長軍を上回ってはいましたが、総大将である今川義元が討ち取られたことの今川軍に与えた心理的ダメージは非常に大きく、今川軍は戦意喪失し、総崩れとなり織田側の大勝で終わります。

どうやら、織田方の前衛である佐々政次他の義元軍前衛への攻撃の後に、かなりの豪雨が降っており、織田信長軍はこの豪雨の間に、義元本隊側が気付かぬうちに、距離を縮めてることに成功したようです。

なお、以前有力だった、織田信長軍が、義元本隊へ迂回して奇襲をかけたという説よりは、直進して攻撃をかけたという説の方が今では有力となっているようです。

ただし、直進して信長が攻撃を仕掛けていたとしても、義元本隊が今川の他部隊と離れた局面でそこにピンポイントで信長軍が急襲を仕掛ける結果となったと言うことは、全体の兵力差や戦局の流れから考えても、そのように思われます。

桶狭間の戦いの戦後

桶狭間の戦いで、信長軍が義元本体をピンポイントで打ち破ったことは、戦局を一気に決めました。

既に息子に家督を譲っていたとはいえ、依然として今川家の実質的なトップであり自らこの軍を率いてきた今川義元が討死し、同時に、義元の右腕左腕の有力武将たちが一気に討死しました。

松井宗信、久野元宗、井伊直盛、由比正信、一宮宗是、蒲原氏徳など、有力な武将たちが義元を囲む形で周囲に固まっていたため、一気にこれらの今川家の中枢が討死したことは、非常に大きな衝撃であったでしょう。

先に大高城に兵糧を入れてから、鷲津砦を陥落させていただ松平元康も、急激な戦局の変化と、今まで従属していた巨大なはずの今川軍があっけなく敗れたことで、途方に暮れたことでしょう。

松平元康は、敗走する今川軍が捨てていった、松平家の元々の城である三河の岡崎城に入ります。しばらく松平元康も今川家の行く末を見守っていたようですが、義元なき後の当主である今川氏真に義元の弔い合戦をするほどのエネルギーや覇気もないことを見て、今川家から独立していくことになります。

その後の元康は、独立勢力として、新たに織田信長と同盟を組むことになるのです。織田信長とは実は、元康が幼少の時、人質として織田家で過ごしたことがあります。このため、いくつかの小説では、そのときにお互い子供同士での絆ができていて、大人になって桶狭間の戦いの直後に、同盟を組む際のきっかけとなったとされていることもあるようです。

いずれにせよ、戦国時代は今川義元の敗北と信長の大勝利によって、新しいページに進むことになります。

こちらで軍師チャンネルの桶狭間の戦いの動画も是非ご覧ください!

【戦国時代】桶狭間の戦い – 今川義元2万5千の遠征の真の理由 〜 父信秀病死で混乱した織田家と若い信長の急成長、優秀な武将だった義元はなぜ逆転されたのか〜

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