稀代の合理性と革新性をもった英雄、信長
日本の戦国時代で人気のある武将としては、織田信長の名前を挙げる人が結構多いのではないでしょうか。
信長と言えば、後に、その配下であった豊臣秀吉や盟友の徳川家康が戦国時代を統一した基盤を作った功労者であり、その原動力として、様々な合理的な政策や戦術を誇ったことで有名です。
合理的な政策の代表としては、楽市楽座や身分に拘らない実力主義の人材登用であり、戦術としては、最新の武器である鉄砲や鉄甲船の活用が挙げられます。いずれも合理性・革新性を備えた策を次々に採用してリードしていったところに、信長の魅力があるのではないでしょうか。
英雄が、少年時代に「うつけ者」(バカ者)と蔑まれる矛盾
そんな英雄としての織田信長の実績を見た上で、信長の幼少期や少年期のエピソードを見ると、周囲の大人たちの殆どから「うつけ者」(バカ者)として低い評価をされ、将来、織田家を継いだら織田家の滅亡につながる、とすら不安視されていたとされています。
実際には、織田家を継いだ後の信長は、織田家の存続どころか、勝てるはずがないと言われた強敵の今川義元を桶狭間の戦いの大成功により下し、斎藤道三亡き後の美濃の攻略にも成功、浅井・朝倉との戦いにおいても一時は苦戦するものの、最終的にこれを下し、覇者への道を突き進んでいきます。
当時「人間50年・・・」と信長が唄ったとされている敦盛の舞にもあったように、50歳で、その生涯を本能寺の変で終えるまでの間、非常に多くのリスクを背負いながらも、合理的な政策や戦術によって、あそこまで戦国時代を勝ち抜いて後の秀吉や家康の幕府にバトンを渡した、とても重要な役割を果たして、日本の発展に貢献した人物ともいえるでしょう。
このように、幼少期や少年期の評価と青年期以降の成功を比較して、矛盾を感じてしまう方もいるようです。そのことからか、信長が幼少期や少年期に「うつけ者」と評されていたのは、実は世間を欺いて周囲の国から警戒をさせないために、偽りの姿を演じていた、というストーリーで説明される場合もあるようです。
この点、いろいろな説があるとは思いますが、私は、織田信長が「うつけ者」をわざわざ偽りの姿として演じていたとは、正直思えません。特に幼少期や少年期に「うつけ者」と評されていた根拠とされているエピソードを見ていると、どれも、偽って演じているものには見えず、その後の信長の合理性につながるようなエピソードばかりに見えてしまうからです。
「うつけ者」と呼ばれた少年時代のエピソード
「派手で汚く」見えるファッション
まず、信長は、少年時代、織田信秀という戦国大名の嫡男(跡取り)として育っていたわけで、今で言えば、いわゆる良家の坊ちゃんなわけですね。教育係もついていたりと、現代でいうところの家庭教師も付けられているお坊ちゃんです。
そんな信長ですが、当時の教育係の目から見ると、とても耐えられないような、いわゆる当時の不良ファッションをしていたようです。髪型は派手好きな当時の若者で流行っていたとされる髪型。
服装も、良家の大人だったら絶対自分の子供にして欲しくないような、当時の派手好きの若者特有もしくはヤンキーファッション的な装いだったようです。
逆に弟の信勝は大人ウケの良いキレイ目のファッションをきっちりしていたようで、二人の装いを比較することで、信長の「ウツケ」評価はまた広まっていたのかなと思います。
ここまでの状況から、若い時はヤンキー・不良だったのに、更正してよかったねと考える人もいるかもしれませんが、どうでしょう、むしろ、信長の本質は幼少期から大人になるまで一貫しており英雄の本質を持っていたとも思えてしまいます。
まず、「派手で汚く」ファッションが見えたというのは、世代の違う大人たちの主観的な評価にすぎず、信長が当時生きていた同世代の若者の中ではむしろ評価が高いファッションであって、なんらおかしいものではないんですよね。
また、世間体や忖度(そんたく)しないという信長のキャラクターは、青年期以降にリーダーシップを発揮していく際に際立っていましたが、そのキャラクターが幼少期や少年期から発揮されていた結果が、そのような若者特有のファッションであり、大人たちの目線を意識するような無駄な行為を信長は少しもしなかった、、、という潔さでしかないと思います。
またカジュアルなファッションをする中で、窮屈な正装にちかいファッションをせずに、自分自身が快適で楽に過ごせるカッコを優先したというところも、彼の合理性の追求の結果かと思います。
栗や柿をかじりながら歩く
次に、信長の少年期のエピソードとして、このようなものもあります。仲間と一緒に通りを歩きながら、栗や柿をかじっていたということですね。
当時は特に、良家の子息ということもありますが、食べ物を食べながら歩き回るという行為が、大人たちから礼儀が悪いとされていたようです。信長はこのような大人たちの尺度からの礼儀正しさというものを無視して、食べながら歩いてました。
このエピソードについても、信長の合理性しか見えてこないというのが私の正直な感想です。
信長は、単純に腹が減ったら食べる。友達と歩きながら食べ物をかじって空腹も満たせたら、便利だし、あえてその欲望を止める理由も無い。これも、信長が世間体を一切気にせず、自らの合理性に基づいてのみ行動したということかと思われます。
もちろん青年期以降には、徐々に、政治的なことも考えつつ、無駄に自分の悪評を増やすような行動は控えるのかもしれませんが、当時の少年期においては、周囲の仲間も同様に食べながら歩いていたわけで、彼の世界の中で仲間からの評価にも一切影響も与えませんし、変える必要がなかったのだと思いますね。
というわけでこちらのエピソードも、わざわざ信長が、偽って、演じていたというよりも、全くの「素」「自然体」でしか無いのかなと思います。
同世代の仲間と肩を組んでねり歩く
こちらのエピソードも、上記の、若者特有のファッションとセットで、栗や柿をかじりながら、行われたということですが、信長少年期の「うつけ」の評価の根拠となるエピソードとして紹介されるものが多いものです。
こちらのエピソードからは、信長に、肩を自然と組んで歩けるほどの近い距離・信頼関係にあった同世代の仲間がいたことが見えて来ます。戦国大名の嫡男の行動としては珍しかったのかもしれませんが。逆にだからこそ、彼が、自分自身で身分の上下を抜きにして信頼関係をゼロから作った仲間がいるということが貴重だったようにも思います。
大人からの目線を気にせず共に行動できる仲間が、戦国大名の嫡男であるという、通常であれば皆が遠慮してしまうような環境であったにもかかわらず、そこの垣根を突き抜けて、信長は構築できていたというふうにも考えられますね。
これが後々、桶狭間の戦いで、圧倒的不利な状況でも彼を信じで生死を共にする覚悟で、信長について来た少数精鋭の軍団を作るに至った原動力にもなったのでは無いかな、とすら私は想像を働かせてしまいます。
いったん今日はここまで、また更新していきますね。
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