<逆説>長篠の戦い〜実は主役は家康だった?〜戦いの背景と勝敗の要因の分析

長篠の戦い3段撃ちはウソ? 戦国時代(日本)

長篠の戦いとは

長篠の戦いとは天正3年(1575年)6月に、三河の国、長篠城を巡った戦いです。織田・徳川の連合軍と武田軍が戦いました。

長篠の戦い

 

 

 

 

 

織田信長と徳川家康は、主従関係ではなく同盟関係にあったため連合軍とされていました。一方で武田軍は武田勝頼です。勝頼は武田信玄の4男で武田家を継いだところでした。

2年前に起きた三方ヶ原の戦い

そして、長篠の戦いがおきた1575年より2年前の1573年1月には、徳川軍と織田軍の連合軍と武田軍が戦った、三方ヶ原の戦いがあったんですね。

三方ヶ原の戦い

武田軍は当時は、武田信玄に率いれらており、この信玄の武田軍に、徳川・織田連合軍は惨敗します。完膚なきまでに叩き潰されますが、信玄は、この三方ヶ原の戦いの後、急遽死亡。このため、徳川家康は、それ以上の追撃を受けることはなく、生き残ることができました。

そうして武田軍は、信玄の急死により、一旦、本拠地に戻って軍や家を整える必要がありました。武田家の後継者には、結果的に、上記の4男、勝頼が選ばれ、その勝頼が武田軍を新たに率いて、長篠の戦いへと続くことになります。

長篠城の位置と関係

みなさん、長篠の戦いというと、織田信長が武田軍をやっつけ戦いということはよくご存じなので、もしかすると織田領と武田領の境界で戦いが起こったと思われているかも知れません。

これは少し違います。実際には、織田というよりは徳川の領地と武田の領地の境界線に近いところで起こった戦いと考えた方が良いでしょう。

長篠城 位置大まか

ですので、徳川がメインで武田と戦った、三方ヶ原の戦いの延長線上にある戦いと考えることもできると思います。

そして、この地理関係からもわかるように、武田軍は、織田軍と真正面からぶつかろうというよりは、織田軍の主力が来ないうちに、徳川軍との境界線上の長篠城を奪還して、戦略的に有利な状況を作ろうとしたことで始まった戦いとも考えることができるかも知れません。

開戦:武田軍の長篠城急襲

長篠の戦いの大激戦が行われる前に、まず、武田軍が1575年の5月に1万5千の大軍で、守備隊わずか500名の徳川傘下である奥平信昌が守る長篠城を急襲しています。

奥平氏はもともと徳川傘下なのですが、信玄による三方ヶ原の戦いのあたりで、武田傘下へ鞍替えしたばかりでした。そんな折に、武田信玄の死亡を奥平氏は知ることになり、武田家の存続を危ぶみました。

要するに、奥平氏は、武田家は信玄が死んだらもう終わり、衰退するに違いないと考えたわけです。それは非常に、日和見主義で、風見鶏のような態度ではあるのですが、非常に冷徹な現実認識をした上で生き残るために、徳川傘下に再び鞍替えしたんですね。

これが1573年ごろです。武田勝頼は当然、激怒します。信玄の跡を継いだのが自分ですし、信玄が死んだ後の武田家を見限るとは裏切り者め!と考えたでしょう。また、武田軍の士気を維持していくためにも、メンツがかかっていたと言えましょう。

武田家に送っていた奥平信昌の妻や弟など人質3名を、離反のわかった後、1573年9月に処刑までしています。

このようなプロセスを経て、武田勝頼は、ある意味、必然的に、威信を示し、重要な戦略拠点を奪回するためにも長篠城を攻略するために出てきたと考えられます。

長篠の戦い<マンガ風ストーリー編①> 勝頼はなぜ無謀な戦いをしたのか?〜信長-家康 連合軍 vs 武田勝頼

長篠城から徳川への援軍要請

奥平氏が守る長篠城は、その守備隊、わずか五百人の兵士のみです。

奥平氏も、国境線上の城を、武田を裏切った身で任されているわけですので、ある程度予想はしていたと思います。実際に、徳川傘下として、長篠城には徳川から大量の鉄砲を支援で運び込まれていたそうです。

早速、奥平氏の長篠城からは、奥平信昌の家臣である鳥居強右衛門(とりいすねえもん)が徳川へ援軍要請の使者として派遣されます。

すねえもん

鳥居強右衛門は、無事、徳川に、武田軍の来襲を伝え、徳川への援軍要請に成功します。が、早速、長篠城に戻って、奥平氏の守備隊に、援軍がくる朗報を伝えに行こうとしたところ、残念ながら、長篠城を包囲していた武田軍に捕縛されてしまいます。

長篠の戦いの兵力差と裏事情

そうして、徳川方に、武田軍の来襲が伝えられ、最終的には、織田・徳川連合軍が武田軍と衝突することになります。

長篠の戦いの兵力の関係ですが、諸説あるものの織田・徳川連合軍の方が武田軍の2倍以上多かったとされています。

この内訳は徳川軍が8千人、織田軍が3万人で合計3万8千人というのが通説とされており、別途諸説があります。これに対する武田軍は、約1万5千人位だったとされています。

数字を見ると2倍くらい違いますが、織田・徳川連合軍は、徳川軍だけだと8千人で、織田軍は援軍をなかなか送らないことがこの頃続いていましたので、最後まで織田軍が本当に援軍に来るかどうかわからなかったという面があるようです。

徳川は自らの領地である三河と武田の領地の境界線上の戦いのため、ダイレクトに当事者です。

その頃、勢力としては大きくなっていた信長ですが多方面で戦っていましたから、今回の戦闘において動員できる兵力はそこまでないだろうと武田には予想されていました。

要は、武田は、織田がこないうちに局地戦で勝利してしまおうという魂胆であった、ということなのではないかと私は思っています。

織田軍は中心的な戦力でなく、後詰めにすぎなかったのか

また、この辺りは諸説あるようですが、戦場はあくまでも徳川家康の三河地方における、武田との軍事境界線の奪い合いによる戦いという意味もあり、徳川・織田連合軍の中では、家康だけが本気だったようにも思えます。

織田信長は、多方面の戦いを行なっており、正直、それどころではない状況であったという事情もありました。

但し、家康だけの8千で武田軍1万5千に打ち勝つのはちょっと厳しいです。(逆に武田勝頼はそういう読みがあったからこそ、動員可能兵力の決して全てではない1万5千の兵だけで、来たと言えるでしょう)

そこで、家康としては、後詰としてあまりモチベーションが高くなくても信長に3万出させることで武田軍を分散させることができれば十分と考えたのではないでしょうか。

ですから、実際のリードは徳川軍によって行われたと考えることが自然とも思います。

鳶ヶ巣山攻防戦(別働隊作戦)

そして、この長篠の戦いの序盤戦として、並行して行われたとても重要な攻防戦がありました。

徳川の重臣である酒井忠次を中心に、織田家臣の金森長近ら加えた別働隊で、武田の長篠城包囲用の砦に残した戦力を奇襲した作戦でした。

鳶ヶ巣山攻防戦

今までみなさんがよく聞いてきた、織田信長を主役とした長篠の戦いのストーリーからは、この重要な攻防戦である鳶ヶ巣山攻防戦自体も、信長のリードによって行われたかのように、織田信長がこの奇襲を酒井忠次の提案を採用という説もあります。

但し、実際には徳川家康の家臣に過ぎない酒井が家康を飛び越して信長に案を採用される、、、というのが、そもそもストーリーとして無理があるように思われます。

この辺りは、現在のみなさんが知っている長篠の戦いのストーリーが、過去のどんな文献をベースにしているかというところを考えると、見えてくるものがあると思います。

主な歴史書の視点と背景

信長公記(しんちょうこうき)

例えば、様々な織田信長ストーリーの出典として参考にされている「信長公記(しんちょうこうき)」では、織田信長の旧臣である太田牛一が著者なんです。

太田は、織田信長死後は丹羽長秀に仕え、その後、豊臣秀吉に仕えているんですね。そして、長秀・秀吉家臣時代の記録をもとに編纂されたとされています。これでは、織田や秀吉びいきに書く可能性こそあれ、秀吉の実質的な政敵ともなった家康びいきに書く可能性はゼロですね。

政敵である家康よりも、信長死後は、既に死んでいて、長秀や秀吉にとって、偶像化しやすかった信長にひいきした記載となっている可能性があるかなと思います。

甫庵(ほあん)信長記(しんちょうき)

こちらは、上記の太田牛一の信長公記をもとに、江戸時代に儒学者であり医師である小瀬甫庵が著作したものとされています。

長篠の戦いの3段撃ちは、この甫庵信長記の逸話とされているのですが、あくまでも江戸期に読み物として人気を得る意図でアレンジされているようですので、事実かというと微妙かなと思います。

長篠の戦いについて、Youtubeで語ってみました。

なかなか、文章だけでは語りきれないこともあり、ニュアンスもあり、この辺りは、Youtubeで語ってみましたのでそちらもぜひご覧ください。

【戦国時代】長篠の戦い – 武田の騎馬隊の真実 – 織田・徳川 vs 武田 〜 信玄亡き後の武田軍をまとめた勝頼の実力と家康・信長の智謀との戦い〜

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