韓信とは?
皆さん、「韓信」をご存知でしょうか。韓信は、中国の古代、始皇帝の治める秦の時代の最後から、新しく始まる漢の時代にかけて、漢の始祖である劉邦のとても重要な大将軍でした。
この韓信は、貧しい生まれからスタートして、紆余曲折を経て、劉邦の配下となり、程なくその天賦の才能を認められて大将軍に抜擢され、大活躍し、劉邦が項羽に勝つ原動力ともなった、人物の一人です。
特に韓信の逸話や発言は、それ自体が韓信を知らない人でも知っているような有名なフレーズとして現代の日本でも知られているものが幾つかあります。非常に賢く、現代に生きる我々にとっても参考になる逸話がありますので、今回はそんなお話をいくつかご紹介できればと思います。
韓信の股くぐり
将来、漢で大将軍となった韓信ですが、若い頃の逸話として「韓信の股くぐり」があります。韓信が非常に優秀な大将軍であり、その実力で出世したことは皆が認めるところだと思いますが、そんな志にあふれた韓信はどのような若者だったのでしょうか。
まだ無名で金も地位もなかった韓信は、ある日、町の若者にケンカを売られました。
「お前は臆病者だ!」
「悔しかったら俺をお前の持っている剣で刺してみろ!」
「そんな勇気もないなら、俺の股をくぐれ!」
すごく大まかに言うと、いわゆる町の喧嘩でこんな風に挑発されました。
ここで、わかりやすいヒーロー伝説であれば、韓信があっという間に、すごいワザや知恵を使って無礼な若者をやっつけてしまい、若者が、韓信様、おみそれしました・・・と言う話になると思うのですが、そうではありませんでした。
韓信は、こんな無礼な若者の挑発に対して、何の抵抗もすることなく、黙って、若者の股をくぐったそうです。
そして、それを見ていた周りの人たちは、韓信のこの行動を見て、これを馬鹿にして笑ったそうです。韓信は笑われたり馬鹿にされることもわかっていました。
それどころか、韓信には、この無礼な若者と実際に剣で戦ったとして勝算がないわけでもなかったでしょう。
特に、後の武将としての成功やその知略からも、何らかの形で、この無礼な若者を打ち負かそうとすれば、おそらく打ち負かすことができたと思われます。
しかし、韓信は、黙ってこの無礼な若者の股をくぐりました。
のちにその戦略的な才能を発揮して大出世する韓信ですから、当時から自信もあったでしょうし、プライドもあったでしょう。しかし、韓信はそのプライドを持ちつつも、あえて、周りから馬鹿にされても、この無礼な若者と無駄な衝突をすることを避けたと言えましょう。
むしろ、戦略的な才能を持っており、冷静なマインドを持っていたからこそ、冷静に、周囲の視線や恥ずかしさにも負けずに、無礼な若者を相手にせず、自分の志を達成するために回り道となるような行動を避けることができたのではないでしょうか。
とても考えさせられる逸話ですね。
項羽も劉邦も、韓信の才能に気づかなかった
結果的に、劉邦の配下として実力を発揮する機会を与えられて大活躍し、大出世する天才とも言っていい韓信ですから、凡人ならまだ知らず、項羽や劉邦のような当時抜きん出て勢力を大きくした優秀なリーダーであれば、韓信と会えばその才能にすぐに気づくのではないか、、、このように思いませんか。
しかし、現実は、残念ながら、そうではありませんでした。
秦の始皇帝が死んで、陳勝・呉広の乱をきっかけに群雄割拠の戦乱の時代に入り、韓信は、まずは項梁の配下となり、次に項梁の甥である項羽の配下となります。
項梁、項羽と合わせて凡そ3年くらい項家の配下として働き、項羽にも何度か韓信が進言をする機会がありましたが、項羽は韓信の進言を聞くことはなく、韓信は大して重要な役割を与えられることすらありませんでした。
項羽や項梁には韓信の才能や価値を正しく見抜くことができなかったわけです。
それで、韓信は、このまま項羽のもとで働いていても、自分の才能が評価されることも、成果を残せる機会を与えられることもないであろうと考え、項羽の元を自ら離れ、劉邦の配下への仕官をします。
劉邦であれば、自分の才能を評価してくれるであろうと期待したことと思います。
しかし残念ながら、劉邦配下でも、韓信は接待係のような大して重要ではない役職しか与えられませんでした。
最初は劉邦配下と言っても劉邦と直接仕事をする機会もないからしょうがないようにも思えるのですが、一番最初に重臣の夏侯嬰が韓信に興味を持ち劉邦に推挙しても、劉邦はさほど当時の韓信に興味を持ちませんでした。
それでも兵站官の職を何とか得た韓信は、今度は、兵站の責任者である蕭何(劉邦の内政面の右腕)とのやり取りの中で、蕭何にその異才を見出されます。
しかし蕭何が劉邦に何度も韓信を推挙しても、劉邦は韓信の才能を見抜くことができず、重用されることは長くありませんでした。
そんな不遇の時期が長くなったことで、韓信は劉邦配下にもやはり失望をして、劉邦軍からの逃亡を計画して試みます。ところが、韓信が劉邦配下を去ることを知ってなんと蕭何が自ら韓信を連れ戻しに行きます。
蕭何は他の将軍が劉邦軍から逃亡するときには決してそれを追って連れ戻そうとはしませんでしたが、韓信のときにはあえて蕭何自らが既に先行していた韓信を追って遠出をしてまで連れ戻すことをしました。
あまりの遠出となったことで劉邦からは蕭何自身が逃亡したのではないかと思い込んでしまったくらいだったようです。この事件を契機に劉邦は右腕である蕭何が「国士無双」だとしてそこまで大切にする韓信について、自分自身では直接その才能がわからなかったものの、ある意味、蕭何が信頼していることによって、その価値を認識するようになり、重用して活躍の機会を与えるようになりました。
結果的に劉邦配下で活躍する機会を得たわけでしたが、劉邦ですらも、その才能を何度あっても正しく認識することができなかったわけです。もちろんそんななかで夏侯嬰や蕭何といった何人かが韓信の才能に気づいたのですが、偉大なリーダーである項羽や劉邦ですらも、韓信の才能に気づけなかった。
逆に言うとそれくらい人の評価というのは曖昧なものであり、それでも自分を信じたからこそ韓信は腐らず最後に活躍することができたと言えるでしょう。
韓信が敵の英雄「項羽」を評した場面
こちらも、私が韓信の逸話の中でも大きな感銘を受け、好きな逸話です。
その当時、圧倒的な武力を誇り、劉邦が恐怖すら感じていた猛将、項羽。この、当時ある意味神格化されて、劉邦も皆と同様に恐れるあまり、勝てる気をなくしていたのが項羽です。
この項羽について、まだ劉邦軍に参加して大した功績もなかった頃のある意味駆け出しの韓信が劉邦に項羽の弱点について説明するシーンがあります。
項羽が表面的な優しさのみを持ち、リーダーとしての覚悟が欠けている
韓信は、このような趣旨のことを言ったそうです。
項羽は確かに強いだけでなく、優しさも備えていると言われることがあります。これは、項羽が普段人に接するときに、とても優しく接するからです。また、困った人がいれば涙を流してこれに食事を与えようとするような慈愛の心も持っているからです。
ですが、そんな項羽も、実際に将や兵が功績をなしとげたときには、これに褒賞を与えることをためらい、きちんと評価するようなことをしないのです。
要するに明らかに弱いものに慈愛を感じたり、一見人に優しいと思われるような、雰囲気を出してはいるのですが、フェアで公平に部下の業績を評価して見合った褒美を与えたりすることを、なぜか、ケチって十分に行えないのです。
これは、項羽にフェアで公平な視点がなく、また、常に自分以外の者が表彰されることに対して、嫉妬のような狭い心を持っているこということに違いありません。
このような人物は、軍やその組織を強くするリーダーとして適切ではありません。すなわち、彼の軍やその組織は、このような偏った項羽のリーダーシップによって、健全な状況ではなく、組織力に弱点があると言っても良いでしょう。
匹夫の勇〜ただ獣のような強さがあるだけで、リーダーとしての強さが無い
次に、韓信は項羽を評して、このようにも言いました。
項羽は確かに戦わせたら強いです。そしてその迫力で項羽が叱咤すれば大勢の者がこれを恐れるほどです。(いわゆる、力抜山、気蓋世ですね。力が山を抜くほど強く、殺気が世を覆うほどだと)
但し、その強さはある意味、獣のような強さに過ぎず、賢く、配下の将軍を生かして、軍全体を指揮して、戦略的に勝利する、このようなリーダーに本来必要な強さとは違います。
項羽にはこのような戦略的な勝利を行うための能力が欠けており、また、そのような献策をできる優秀な人間を活用する度量も欠けているのです。常に自分が一番で無いと気が済みませんので。
韓信が、「劉邦」を評した内容
劉邦が項羽を恐れていた際には、上記のように冷静な「項羽」評を行った韓信ですが、一方で、自分がその配下についた「劉邦」についてもなかなか面白い評価をしています。
特に、劉邦は項羽とある意味正反対のキャラクターであり、なおかつ「項羽と劉邦」として描かれたほどお互いに、最後まで戦いあったライバルであったことからも、戦略家でもあった韓信が、項羽と劉邦の二人を評価した内容はなかなかです。
まず、劉邦からの自分の評価に対する質問に対して、韓信は、劉邦は将軍としては、せいぜい10万人の軍を束ねることのできる能力であるとした上で、韓信自身は、もっともっと多くの兵力の軍を束ねる能力があると回答したとされています。
その一方で、韓信は、自分にはない劉邦の長所として、劉邦が、(兵ではなく)将軍を束ねることのできる才能を持っているとして評価したそうです。もしかすると、将軍を束ねることができるだけでなく、将軍以外の文官としての大臣も束ねることのできる能力といった広い意味だったのかもしれません。
これは、韓信からの劉邦に対する評価としての逸話ではありますが、上記の、項羽に対する評価との比較で考えると、項羽が自分自身の武芸・戦闘力を強みとしつつも、結局は、有能な将軍や文官の大臣を活用することができなかったという欠点の正反対とも言えます。
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