伍子胥とは〜一言でいうと
今回は、中国春秋時代の激情の烈士、伍子胥(ごししょ)についてお話しします。まず、伍子胥ってどんなキャラクターの人だったのというところを簡単に説明しますね。
キャラクターは、「激情と理性のミックス」と言えます。激情という点については、「復讐の鬼」でもあり「ハングリー」な人でもありました。その一方で「理性」という点については、「高い軍事・内政知識」の能力を持ちつつも、「清廉潔白」な人とも言えます。激情と理性のミックスという点については「忖度(そんたく)なく直言の人」でもあったところが正にそうだと考えています。
伍子胥のヒストリー
楚国の父/兄の死と流浪
父の伍奢 – 楚の太子建の太傅
伍子胥のお父さんは伍奢(ごしゃ)という人で、楚国の王子(太子)である建(けん)の家庭教師役・指導係(太傅)という地位にありました。これは現代のいわゆる家庭教師とは違って、王子の長きにわたる家庭教師役という事ですので王子が王に即位した場合、即座に王を補佐するようなかなり重要な地位になるわけです。
このため、現代で言えば大臣に近いクラスの地位にあったと考えても良いのではないでしょうか。つまり、伍子胥は楚国でかなりの有力者の家柄に生まれ、順当に行けば、そのまま将来は楚国の重鎮になるような位置にいたと言えましょう。
太子建と秦姫の婚儀がなくなる
そんな順風満帆に見えた、伍子胥の家ですが、急遽、暗雲がたち込めることになります。きっかけは、お父さんの伍奢が家庭教師役(太傅)を務める王子の建の婚儀の予定が、秦国との間で立てられた事でした。
いわゆる政略結婚です。ただし、この政略結婚についてはそのまま行われていれば特にそれ自体が当時問題となるものではありませんでした。ここまでは何の問題もなかったのですが、あることによって、この婚儀が取りやめになってしまいます。
腐った佞臣の費無忌
事件は、王の臣下の一人であり佞臣(ねいしん)と言ってもいい、費無忌(ひむい)によってもたらされます。秦国から楚国の王子との婚儀のために秦国の姫(王の娘)が来たのですが、楚国側でこれを受け入れる際に、費無忌が姫を見て、余計なことを思いつきます。
姫が、あまりにも美人であったため、これを王子の妻にそのまま迎えるよりも、その時点での権力者である王の側室として、自分が王に提案する事で、王に「ゴマスリ」しようとしたんですね。
まあ、そんな「ゴマスリ」に乗ってしまう王も王です。目の前にぶら下がったニンジンへの欲望を動物のように抑えられない王様だったんでしょうね。それを知っていて、佞臣の費無忌も、どうしようもないです。
結局、秦国との間で明確に、王子との婚儀と約束されていて双方の重臣達も皆知っている中で、恥も知らず、仁義もなく、ただ王の欲望とそれの利用して出世しようという佞臣の陰謀によって、今義がねじ曲げられ、王様の婚儀にすり替えられてしまいました。
そのような経緯で、王子(太子)建と秦国の姫との婚儀は、まず中止されることになります。この婚儀には楚国と秦国の重臣達だけでなく、他の列国からもこれを祝うために重心が列席すべく待機していましたので、何事か、ということになります。
ですが、王様は既に盲目的です。佞臣の費無忌から薦められているという事で賛同者がいるとして安心してしまったのか、費無忌から提案された自分と姫との婚儀に、王は突き進むことになります。
罪なき、父 伍奢、兄 伍尚の処刑
権力者の王が暴走したとき、これを「たしなめる」ことのできる重臣がいてこれを思いとどめることができればよかったのですが、残念ながら、費無忌がピッタリと王について甘言をささやいてい多声か、どの有力者もこれを制止するどころかまともにこの問題についてコメントする者も殆どいなかったようです。
そんな時、唯一、保身を考えずに、王へ真っ向から反対して諌めようとしたのが、伍子胥のお父さん、伍奢でした。偉い!
伍奢は、そのようなことを王がしては、他の列国に対して楚国の評判が地に落ちる。国内でもモラルが崩壊する。基本的にはそういったことを説明し、受け入れられないため、これを嘆き、どうしても止めなければならないと思ったために、派手に、人目を憚らず嘆きました。
王と費無忌は引き返すつもりはなかったため、事が大ごとになると困るとして、伍奢を投獄することにします。その上で、伍奢の息子が楚国の国境に軍をもっていることに、王と費無忌は気付きます。軍は力です。伍奢の投獄に怒って反乱を起こされては困ると。
費無忌は佞臣でしたが、この辺りの先を読む周到さをもった人間でした。すぐに伍奢の息子2人、伍尚と伍子胥に連絡がされます。伍奢に強制してニセの手紙を書かせたのでした。すぐに都に戻ってくるように、お前達が戻ってこれば釈放されると。。
息子の伍尚と伍子胥も馬鹿ではありません。手紙を見て、手紙が強制して書かされたであろうことはすぐに推測できました。ですが同時に父親が、息子が都に行こうが行くまいが、いずれにせよ処刑されるであろうことも推測した上で、兄の伍尚は律儀にも都に向かうことを決意します。
罠であることもわかっていて、自分が行けば、自分も父親も処刑されるだけであることもわかっていますが、それでも父親を一人で死なせるわけにはいかないとして、京都に向かうことを伍尚は決意します。伍子胥は、兄に反対します。それは無駄死にで、行かずに父親の仇を討つべきであると。
兄の伍尚は、仇を討つのは、弟の伍子胥に任せると言って、結局、罠だとは知りながらも手紙の通り、父親が監禁されている楚の都に、馬鹿正直に出向いてしまうんですね。さあ結果は、、予想通りです。父の伍奢と兄の伍尚、二人とも、費無忌に処刑されてしまいます。
伍子胥は二人が処刑されたという情報を耳にしつつ、恨みを胸に、楚を脱出します。楚国内では無実の罪で賞金首となっていて捕まればすぐに死刑となる状況でした。費無忌は単に自分の政敵である伍奢を処刑して、恨みを持つ親族を禍根を残さないために根絶やしにするということだけでした。
呉での仕官、楚への復讐
脱出、乞食もしながら流浪
伍子胥にも父の伍奢も兄の伍尚も、皆、悪事を働いたわけでもないのに罪人のように扱われ、父と兄が処刑された今、伍子胥は逃げるしかありませんでした。ひどい話ですよね。伍子胥のこの時の気持ちを想像すると、苦しいですね。このような嘘に固められて人を悪人扱いして処刑するという暴挙を行った楚の国王と佞臣の費無忌についてどれだけ恨みを感じたでしょうか。
そして恨みを感じつつも、伍子胥には一切の猶予はなく、捕まれば処刑されるということが確実な状況の中で、ボロボロの格好をしてでも逃げるしかありませんでした。乞食もしながらなんとか楚国を脱出したと言われています。
呉へ流れ、呉太子光の呉王僚暗殺に協力
伍子胥は楚国を脱出した後、流浪し、結果、呉の国に落ち着きます。元々、父親も楚国の大臣クラスで、王子の教育係を担当していたような家柄と才能そして圧倒的な倫理観を持った人で、その、伍家の息子として育てられた人材が伍子胥だったわけです。
既に、成人しており、楚国の中でも大臣クラスの子息として、職務についていたわけで実務経験もあり、その上で、父と兄を殺され楚国を脱出するという修羅場を経験してハングリーになっている伍子胥は、復讐のエネルギーと凄みを持っていたのでしょう。
そんな中、呉の国で仕官するわけですが、伍子胥は普通に、呉王の下にはつきませんでした。呉の公子であり、現王の僚の従兄弟であって、僚の父である前王の余味の長兄である諸樊(僚の3代前の王)の息子である光につくことになります。
公子光はそもそも僚が即位したこと自体に納得しておらず、本来であれば自分が即位すべきであったと考えていましたが、その不満を隠して、僚に仕えていました。伍子胥は、この光の不満と自分が王にとって変わりたいという野望に気づき、これを支援することになります。
伍子胥がどう考えて光を支援することを決めたのか分かりませんが、光が現王の僚に取って代わるだけの正当性とこれを支持する人が一定数いることを冷静に分析の上で、恩を売って光を次の王に即位させることのメリットを計算して支援したのかもしれません。
もしくは、光が王としての優れた能力や度量を持っていながらも、光よりも能力や度量も小さく、そもそも即位の正当性すら怪しい現王である僚の下に甘んじている状況について、自身の楚での不条理な経験を思い出し、同情し、共感したのかもしれません。
思うに、上記のどちらかというよりは、両方とも当てはまる要素がありますので、伍子胥はその両方の状況を踏まえ、迷うことなく、光をリスクを冒してでも支援しようと思ったのではないでしょうか。
意を決して、光が現王僚にとって代わるために、僚の暗殺も含めて支援をすることに伍子胥は取り組みます。僚の暗殺は、事が未然に防がれ陰謀が暴かれれば、即、伍子胥と光の処刑に繋がるハイリスクな賭けでした。
これは、仮に伍子胥が楚国で父も死なずに平和に生きていたら、絶対に実行しなかったであろうとは推測されます。現実には、伍子胥は楚国で修羅場に見舞われ、父と兄を殺され、自身も九死に一生を得る形でなんとか脱出して呉にたどり着いていたわけでした。だから、伍子胥にはこのハイリスクな賭けに臆せず自分の人生を賭けるだけの覚悟ができていたのだろうと思います。
新呉王 闔閭の重臣として楚への侵攻を進める
そんな二度目とも言える修羅場を潜り、伍子胥と光は、運も味方してか、現王僚の暗殺に成功します。参謀としての伍子胥の計画力と実行力が、現王僚を支援するチームの警戒や防御力を上回ったと言えるでしょう。
光の王への即位を支援し、一蓮托生の関係と、大きな貸しを光に与えた伍子胥は、光が即位して闔閭となって呉の新しい体制を運用していく中で、重要なポジションを得ることになります。そしてただ重要なポジションを得るだけでなく、伍子胥には実際にその地位を十分に生かし闔閭即位後の政権において呉を豊にして強化していく政策等の実行において貢献するに十分な能力と胆力がありました。
だからこそ、その後の呉の国は着実に強国へと成長していきます。かつて父を殺してただ自分の地位だけを守った佞臣の費無忌とは異なり、伍子胥には志しがあり、能力も胆力もあり、呉の国の発展に尽力し貢献して行ったのでした。
死去済みの平王の墓を暴く
・・・続きは、また更新していきます。ぜひお楽しみに。
youtubeでも伍子胥についてお話ししました
文章でも上記の通り記載していきますが、youtubeでも伍子胥についてお話ししましたので、動画でみたい方はこちらをどうぞ
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